昭和44年03月01日 月次祭



 昔から言われる通りですが、本当に駆け足で2月はあっという間に過ぎた感じでございました。いよいよ今日から3月。今朝の御理解に3月という月は「参」の月だと。「参」と言う事は参ると言う事ね。「3」という字を漢字で書きますと「参」という、参りの月だと、お参りの月だと修行の月だと言う事。一所懸命神様へ打ち向かわせて頂く月だと。とりわけそういう月だというわけ。
 4月はそれこそ、桜の花が咲いたように、ぱっと咲いたようなおかげを頂かせて頂く月にするために3月は本気で修行さして頂こう。いわゆるお参りの月。ここへそういうふうに、今月の焦点。合楽に御神縁を頂いて信心の稽古をさして頂く者の今月の焦点が、その「参」という字にあるんだと。それは4月の華やかなおかげの頂けれる前提としての信心修行がなされなければならない。そこで思うのですが、なら只お参りをするというだけではなくて、どこへ焦点を置いてお参りをするか。
 どこへ焦点を置いて修行さして貰うかと言う事が大事なことだと思うんですね。先ほどお祭りを仕えさせて頂くちょっと前に、善導寺の久保山さんがここでお届けをされます。本当に先生先日からあのご教話の中に、あるところのある方が亡くなられた。もう80幾つで亡くなられた。それこそどれだけあるか分からんほどのお金を沢山持っておられた、それこそもう大変な、いわゆる金貯めの名人でありましただけに、相当業突張りな生活をされた方らしいですね。
 やはりもう後を取る人がない。それでまあお兄さんの子供さん、甥子さんか何かが相続人になっておられたそうですけれども、その方達がみえてもいかにももう乗っ取りに来た要な風に言われるもんですから、皆誰も寄り付かなかったと言う事です。その方が亡くなられる時にです、お医者さんにしがみ付いて言われた事がね、どうぞお金はいくらかかってもよいから、命と金とを替えてくれと言われたっちゅう。それがとても殺しても死ぬような人でなかったらしいのですけれども、まあ幾日かの患いで亡くなられた。
 しかも亡くなられた病名が栄養失調だったと(笑)。おもしろい話ですね。お金の蔵持っておるような人が栄養失調で死ぬなんて、もう本当に笑話のようなんですけども、事実なんです。しかも亡くなる時にはですね、もう金なら何ぼでも出すから命を替えてくれと言われた。けれどもそういうわけにはいけんのですよね。本気で信心しとかないかん。そのことからですね、久保山さん言われるのですよ、本当に私共が日々言わば朝晩参られる。善導寺から毎朝、朝の御祈念に参ってみえる。
 もう朝の4時頃から参ってみえるでしょうね。一時は4時も3時半頃から参って来なさるかもしれませんね。そしてまた夜の御祈念には参ってみえる。言うならまあ一里余りの道ではありますけれども、それが朝晩続けてお参りができておると言う事は大修行である。しかも有り難い御教えを頂いて、確かになるほどなるほど、有り難い有り難いと合点して頂いたつもりなのですけれどもね。それをようと頂いておりませんためにね、頂きようが悪うございますために、それが言わば消化不良になってね。
 私もしかし本当に栄養失調じゃろうと思いますと言うてお届けがあったんです。いいえ、久保山さんあなただけじゃないですよ。本当にこれはもう私共でもこうやって朝から晩まで神様の前に御用さして頂いておる私ですらが自分で時々、栄養失調を感じる事がございます。その証拠にはね、いよいよん時にはへとへとするほどきつか。きつか事があってよかろうはずがない。日頃頂いておる例えばんなら食べ物が十分血になり肉になり、しかもまあ普通で言うなら3度3度の食事が頂けておるとするならです。
 そんなにきついことがあろうはずがない。ところがよろよろするごときついことがあることはです、やはり私共もやっぱり栄養失調である自分、いわゆる日々朝に夕に有り難い御教えを頂いておる、もう本当に美味しゅうて堪らん様なお話を頂いておるんだけれども、それがよう身についていないのだ、血になっていないのだ、肉になっていないのだということを私共が痛感いたします。それは様々なことに直面してそれを、なお感ずるのでございます。
 どういうふうな頂き方をしたならば、その教えが血に肉になるのだろうかと思う。今日もある方が参ってみえて、4、5年前にご主人を亡くされたんです。息子さんが3人おります。1人の息子さんは非常に熱心に、まあお母さんの言う事を聞いて、言うならお母さんの言う通りの、まあ親孝行をしてくれる。後の2人がですねもう右っち言やあ左、左っち言やあ右、もう本当に言うことを聞かん、言うことを聞かんどころか最近はこうこうでございますと言うておられる。
 そして最後に言われることは、もう先生お父さんの方がよかったっち。自分な後に生き残ってからこういう者を見なければならんと言う事は、よっぽど5年前に亡くなったお父さんの方が極楽死だったと言うて、言われるんです。と言う事はもう私の方が先死んだ方がよかったと言う事ね。よく聞くことですよ、苦しいことがちょっとあるともう先生、もう死んだ方がましと思いますとこう言う(笑)私はそこんところをひとつ、本気でひとつ考えてみなければいけないと思うね。
 そんなら5年前ことはいらん今でもちょっとあんた、帰りがけちょっと自動車に飛び込みゃあ、もうあんた死ぬ(笑)いつでんよか事と言いたいけれども、そげん言うたもんじゃあ、もう花もそれこそ身もない蓋も無い様な事ですから、そうですよね。けれども私はね、そういうようなね、問題も何もないなら、もう平穏無事ならどうでしょうかね、それこそ花の台に座っておる、極楽往生しとることであって、却って面白い事もなからなければ、いわゆる刺激も何もない生活というものはどういうものか。
 一遍考えてみなければいけませんね。そこで私共はどう言うてるですか、ここには信心の稽古に通うて来るところと言うとるじゃないですか。ここには信心の稽古に来るところ。そのことを、例えば栄養失調を感ずる、たったこのくらいなことをよろよろするごとある。まあ言うならば死んだ方がマシというごとある。けれどもそれを日頃頂いておる信心の教えをもってするとです、それをよろよろすることもいらなければです、困ったということも何もいらん。
 神様はこれによってまた、ひと修行さして頂きます、これによって本気で信心の稽古をさせて頂きますと生きた教材を頂いておることにお礼を申し上げられるのだけれど、それを生きた教材と頂ききらん、只子供が言う言を聞かんというところだけに目をむいているね。私が20年前の修行の真っ最中の時、福岡から善導寺のお月次祭に帰ってまいります。その時に私、善導寺の総代さんからお金を借っておった。利あげもできない。今度という今度はその利なっとう持っていかにゃ帰られん。
 もう何遍も何遍も嘘になっとる。ところが実際払われん。と言うてお月次祭ご無礼するわけにもいかん。私はもう福岡出がけから一生懸命神様にお願いさして頂いた。どういうふうにしてあの総代さんが参って来ちゃるに違いはないから(笑)だから皆さんこれはもう絶対信心のある者同士に金を借ったり、貸したりどんしちゃなりませんよ。もうここではもう絶対それはご法度うん。これは勿論そこの場合でも私がね、私が貸してくれと言うたわけじゃなかった。私が困っておる様子を見てから貸して下さったんだ、
 けどもそれはもう最高の利子をとってからでした。けれどもねやっぱ貸して、苦しい時であるから借りた。ところがどっこいそれが払えない。ですからね払えないためにです、例えばお参りが出来ない様な事になったりするんです。不義理が出来るだからもう信者同士にね、貸し借りなんかもう絶対にいけません。もうこれはもう昔からここではご法度です。私が体験しとるから。
 けど私が大体心臓が強いからもう五へんの一ぺんの嘘ぐらいは平気で(笑)ばってんもう今度という今度は断りが出来んと言う所までいっとったんです、ぎりぎり。その総代さんは必ず参られるんですね。まあ私はいつでもお参りさして頂くとですね、総代さんが日初穂をそれをちゃんと座ってなさいますもん、こっち向いて。向こうから私が入ってくる。はあ、大坪さんが参って来たばいなあと思うて見よるわけ(笑)。
 で、私はもう神様にご挨拶をしない限りは人には誰んご挨拶しないのが私の流儀ですから、それを知っちゃりますもん。じろっとまあお互い顔を見合わせるだけで、私は御神前に座る。そして御祈念を始める。御祈念を初めてからちょいと立たれんの、またあの総代さんと顔を合わせんならんと思うたら(笑)ほんでもう私はもう、もうそれこそ向こうが根気して帰んなさるまで御祈念しよった。もう大概、後ろの方でかちかちと言うてからその、キセルをですね。
 火鉢の縁でもう私はまだ待っとるばんのっち、言わんばかりにガチガチいわされますもん。はあ、まあだおっておるばいなと思うちから一生懸命、御祈念で神様の前で時間稼ぎやっちゃるもんね。そしてとうとう向こうの方がですね、しびれ切らして帰りなさるもん、はあ帰んなさったばいなと思うてからおもむろに頭を上げてから、そしてその隙に帰らしてもらうというような、しかしこれは笑話ですけども大変なことだったんですよね。けどももうそれもきかなくなった。
 もう今日という今日はいくらかでも持って行かなけりゃ、その総代さんに顔が合わせられん。そこで私は福岡を出た時からずっと神様にお願いし続けてです、もう今日という今日は、私が命のように大事に思うておる親教会のお月次祭ですけれどもね、今日と言う今日は御無礼をさせて頂いて、教会の近所までで帰らしてもらいますからとお願いさして頂いた。神様はどうしてもお許し下さらんのですね。もう西鉄甘木行きの電車に乗ってから、もういよいよ次がもう北野、大城で下りななきゃならん。
 そして私また一生懸命お願いさして頂いたらですね、お前がそう言うなら今日は本郷の教会に参れと頂いたね。あの大城から金島そして何ですか、まだ何かいくつかあります。そして本郷というところがあって、本郷にも金光様の教会があるから、本郷の教会に参って帰る。おかげ頂いたと思うて、今日はもうあの総代さんの顔見らんでよかと思うただけでほっとした。おかげで大城を通り越えた本郷で下りた。ところが私はね本郷の教会がどこにあるかを知らなかった。
 そこで下りてからですもうその頃は、神様にお願いをするといちいち教えて下さるんです、右に行け左に行けと教えて下さるんですから、教えて下さる通りに右に左に参りましたら、小さいやっと車が通るくらいな、その農道に出ました。お百姓さんの百姓に使いよる道なんです。そして行き当たりが大きな堀の前に出ました。これはおかしい。教会に行くどころかとうとう行き詰ってしまった。そこでまた私は神様にそのことをお願いをさして頂いたら、その時に私はこういうようなお歌を頂いたね。
 教会どころか曲がり曲がって行った所が大きな堀の前であった。もう行き詰った。そこで神様にまた回れ右をさして下さり、どう頂くか分からんから神様にお願いさして頂いたらね、「死んだ気で行け」と頂いた。「死んだ気で励めつとめよ徳もつく。道も開ける人も助かる」というお歌を頂いたね。不思議ですね神様からそのことを頂いたら、ほんなこと死んだ気で行きゃあいいんだと。私が例えば今日は参られないもう月次祭にはもう今から行っても間に合わんかもしれん。
 けれども死んだ気でお参りさして頂こうと思うて、まあそれからとって帰らして、善導寺の方へまたお参りをさして頂いたことがあったね。お互いそのねもう死んだ方がマシと言う事はね私は死んだ気で、いわゆる励め努めなければだめだと言う事です、どのようにもほんに死んだ方がマシと言う様な苦しいことがあってもね、死んだ気でやりゃあどげな事でん出来ると言うがね、それは信心のない人の言うことですよね。
 只死んだ気で励め努むと言う事はね、死んだ気で一生懸命働く自分の仕事をすることに処していくことは、これは信心のない者の言い方。それでもやはり死んだ気でやりゃあ、ひとつのことが成就したり、それがおかげのもとになったりするのです。けれどもそれではですね、徳がつくと言う事がない、道が開けても徳がつかん。人が助かると言う様な事にはなってこない。神様の願いであるところの私が助かると言う事と同時に、人が同時に助かっていくと言う事なのです。
 金光様の御信心は、それにはそういう例えばぎりぎりの時にですね、死んだ気になって頑張るというのじゃなくて、死んだ気になってお参りをする、けどもそれでもない言うならどう言う事かと言うとね、死んだ気になって改まると言う事なんですね。死んだ気で励め努めと、死んだ気で励め努めという、死んだ気になっていよいよ改まり、死んだ気になっていよいよ磨かして頂けと言う事なんです。だからこそ私は身に徳がつくんだ、しかもその徳におかげがつくんだ。
 同時に道も開けるのだ、同時に人も助かるのだと言う事になるのです。よく死んだ方がマシと本当に死んだ方が、そんならあんた死んだ気になって働きなさいというふうに言われてです、本気で死んだ気になって働いて成功したという人を随分聞きます。けれどもそれは只成功するだけでしょう、信心は何と言うてもお徳を受けると言う事なのですから、死んだ気になって励め努めと言う事は死んだ気になって信心に励み信心に努めよとこう言う事なんです。
 先ほど前講に久富さんがここでお話をいたしております中に、それは本当にそれは本当に勿体ないほどのおかげを頂いておりますと。同業の人達が本当に久富建設だけは違うと、たまがられるほどにおかげを受けると。また事実おかげを受けておる。けれどもねそのおかげからおかげになるまでが不安だとこう言うのである。そうですよねお互いが。どうなるじゃろう。だから勿論心配する心で信心するわけなのですけれども、信心とはその不安その心配に取り組んで本当の信心がなされにゃいかんのですね。
 お願いをしとるけんどうとかなろう。もうどうかなることは間違いない。けどもおかげになる例えば久富さんの場合なんか、どうとかなるじゃなくておかげになることは知ってるんだ。もう沢山の体験から。けれどもやはり不安なんです。その不安であるというところがね、言わば今後正義さんあんたの信心のそこへひとつおかにゃいかんばい、あんたがそこに不安を感ずると言う事は修行不足ぞと私は申しました。
 不思議なんだ。本気でその不安が、その心配が、いわゆるその不安が消えるような、または心配が消えるような、私はおかげを頂くためにはそこに今までできなかった修行に取り組むことなんです。今まで、例えば思い続けてきた、こんなこっちゃおかげは受けられんと思うてきたことがあるんです、誰にでもね。教えを頂けば頂くほど自分が分かってきてここは改まらにゃいかんと言う事が分かる。けれどもその改まりができない、そのことをもって磨くと言う言をようしなかったと言う事にです。
 ただ今取り組ませて頂いて、そこんところを修行さして頂くところから生まれてくる安心ね。安心してそしておかげを受ける時にはもうすでにおかげだけじゃない、安心の徳が身についておるんだと、正義さんが言うたのは。親先生からは正義さんあなた修行不足ばいと言われた時にあることを発心しました、あることに取り組ませて頂きましたら、おかげで不安が消えましたとさっき話しておりましたですね。
 ですから皆さん、おかげからおかげの間をね、不安であったり焦燥であったりしたんでもお取次ぎを頂いておるから御取次ぎの働きがですね、現れてきますからおかげにはなるんです。けどそれはおかげを受けただけなんです、そこで私は思いますのにです、その修行不足をカバーするところの、言わば修行がね、そういう時になされる。その不安心配に取り組んで、その不安が心配が神様にお供えができるくらいな信心ね。
 そういうおかげを頂かせてもらう、そこからそれはもうおかげじゃない。おかげと同時に安心の徳が受けられる。それが積もりに積もって、いわゆる大安心というおかげになってくる。信心の目当て、信心の目指しはそれなんだ、久保山さんが言われる、本当にこれほどの信心をさして頂いてこれほどの有り難い御教えを頂いておるんだから、この御教えを本当に有り難く頂いておりゃあ、それが血に肉にならんはずはないのに血に肉になっていなくて、栄養失調どんになりよる。
 だからちょっと疲れるともうよろよろしよる。ちょっとどうかするともう青うなりよる。人間ちゅうものはもうすぐ人相に現れる。心が豊かな有り難い時にはやっぱり有り難い、顔色をするけれども、やはり栄養失調の証拠には、ちょっときついことがあってくると、もうそれで顔色が変わる。そこで私共がその教えに取り組んでおる教えを血に肉にすることの本気で取り組まれていないと言う言を分からしてもらって、いよいよ教えが血に肉にならして頂くおかげを頂かなければならん。
 ただ今御祈念を奉仕する、まあ10分余りの間にね、2人の亡くなられたというお届けがあった。電話が掛ってきた久富さんの、久富勇さんの奥さんの兄さんの嫁さんのお母さん。80からなられます。丁度お参りをして見えておる所へ、電話が掛って来て、里のお母さんが亡くなったというお届けがあった。おかげを頂きましたですね、しっかり80年のことのお礼を申し上げてから、まあ帰らして頂きなさいと言うて申しました。
 そしたらすぐその後にそこの立石さんという方が94歳ですか、父がそういう長生きのおかげを頂いてお国替えのおかげを頂いたというお届けがあった。ははぁ私は今日は朝からずっと気に掛っておった。私の茶の間に参りますと、小さい一輪挿しに白の椿が一輪挿しに入れてある真っ白の。私の控えにまいりますと白の水仙が、これも一輪挿しに入れてある。ここへ参りますといわゆるカラーね、カラーっていう花がありましょう。白い大きな花。カラーを中心に黄の菊の花。
 それから白椿で形を整えた大きなこういう椿の花がお供えにあって。私はこれは壷などにはどげなもんか分からんじゃったら、今日はこのくらいか大きゅうなってある。見たら、ふっと見たら白い花。これは白ばっかり。先ほど田代さんとこの霊祭があったから、お下がりに頂こうと思うたぶどう酒が白の、白玉のホワイトポートワインであった。まあ皆さんはここで御神縁を頂いて、いわゆる自然がいつも神様は私共に話しかけておって下さることがそれで分かりますですね。
 ここに縁のある方達の中にお国替えのおかげを頂かれた。けれども今日の場合、今聞かして頂いたことはね、もうどちらもどちらかと言うならお祝いのようなお国替えである。80何歳、94何歳と言った様な高齢のお方ばかりである。しかもお取次を頂いておかげを受けられたのである、それで私は思わせて頂いて、今日の御理解を皆さんに聞いて頂いたんです、これはもう誰彼じゃあない。
 誰彼じゃない私自身が今月はひとつ、死なせて頂きゃあいいのだとこう思うた、私が空しゅうなればいいんだと、私が死のうね。そこでですもう私は死んだと思うてからどうも言わん。私はもう死んだと思うてからちゃんと寝とる。私はもう死んだと思うてその代わり不平も不足も言わん。しかし金光様のご信心の死んだ気でというのはそんなこっちゃないと思うんですよね。自分を空しゅうすると言う事は。もう死なんまたは不平も言わにゃ不足も言わん。
 お位牌さんが笑わっしゃるわけでもなからなければ怒らっしゃるわけでもない。その代わり笑いもしなきゃ泣きもせん。もうちゃんと寝とる。もう死んだと思いよる。ひもじかたっちゃ誰か持って来てくれるのを待っとくと。私以前のそう言う様な考え方の時代があったんですよ。もう本気で死んだ気でもう不平不足を言わん。もうここがもう痛か痒かも言わん、そんな時に私吉木の石井さんと言うとこに宅祭りに行ったんです。私はうどんが好きだからというので、吉木の信者さん方がですね。
 みんな熱々で今日国武さんのお母さんどんもそうでした。それこそもうこんな大きな丼に、あの時分のうどんちゃあ珍しいですからね。もう本当に真っ白いうどんを一杯して、上にはもうかまぼこやら卵やら具を入れてですね、さあ親先生が来たけんでちゅってから出してみえたのはよかったんです。そして頂こうかと思うたらすめが入っとらんとじゃん。で私はそん時やっぱ死んだ気での修行しよったじゃけんこら、すめがいっとらんとなんてん言うならこれはお位牌様があげなこと言わっしゃることなかけんね。
 黙った頂いたです。もう頂き終わっとるとこで勝手でしもたあって言いよんなさるです。今んとにはあなたすめを入れとらんじゃった(笑)もう親先生じゃろか黙って頂いてからち言うちから、私はあんた死んだ気で頂きよるけんでもうすめ入っとらんじゃったばってん頂いたたいちゅって(笑)。ほんなことですよ、御霊様やら神様やら物言いなさらんけんと思うちからね、ほんなこてろくそうにしちゃいかんですよ。私は今日の田代さんとこの御霊様のお祭りをさして頂いてそれを本当に痛感した。
 もう時間がないから話しませんけれどね。本当に御霊様は大事にせにゃいかん。一言言うならね、人間の世界で私共が、私共ではどうにも出来ない事があるように、御霊様でもどうにも出来ない事があると仰る、そこんところをですね、私共が出来ない言を御霊様ができなさるのじゃかまた御霊様ができなさらんところを私共が真心を尽くしていくところにでね、あいよかけよでね、御霊様と私共があいよかけよでこう立ち行く、お互いがね、まあ言うなら痒かとこをかき合うような思いでね。
 信心させて頂いたら、「ぱん」と音が出るようなおかげになると言う様な御理解頂いたんですけどもね。確かにそうです、御霊様どうも言いなさらんけんと思うちから、わがどんばっかりおいしかおいしか食べちから、御霊様がよだれ流してから、ほんに俺にも一本あげりゃよかとこち思いなさろうばってんから、あげも何もせん。わがどんばっかり食べて。もう途中から思い出してからでんよかけんでね、はあちょいとよか珍しいもんば頂いたちゅうとなら、まず神様へまず御霊様へ。
 はあ本当にあの御霊様がもう喉の渇く時には御霊様が喉が渇いてはござらんじゃろうかと思うて、水の一杯でもお供えするごたる、私は生き方が神様と私共を、御霊様と私共を身近にしていく、これはひとつの方法ですよ、御霊様を身近に感じる、おかげの頂けれることなんですよ、そう言う事が今日はございましたですよね。ですからそういう意味で、私がね、その20年前にとったようなです、死んだ気でと言う事はもうどうも言わんとかそういうこっちゃないってね。
 私は今月はもう皆さんにも、今朝から皆さんに今月は修行の月だと、参の月だ参りの月だと。言うからには私も一つ本気で修行さして貰う。そして私は死んだ気で皆さんにいっちょやかましい言おうとこう思う、その代わり私の心にもやかましく言う、それこそ今まで出来なかった事を死んだ気で改まる。死んだ気で努める。私はお道で言う死んだ気でというのは。死んだ気で励め努めというのは、死んだ気で神様に喜んで頂く様な事に励むのであり、努めるのであり改まっていくのであり、磨いていくのであると言う事。
 そこから道がつく、そこからおかげが受けられる。そこには徳がまた受けられる、不安心配だからお願いをした。そればってんおかげを頂いただけではね、おかげになっただけ。その不安やら心配の時に、その不安心配がなくなるような信心さして貰う事が大事。不安があるのは心配があるのは修行不足と悟らして頂いて、本気で言うならば死んだ気でその修行に取り組ませて頂くところから生まれてくる安心であり喜びである。その安心であり喜びである、そこにおかげが受けられる。
 勿論このおかげには徳が伴うておる、その徳が溜まり溜まり積もり積もって、大安心の大みかげと言う事になるのです。信心の目当て信心の目指しというのはそれなんだ。これば頂かんならんそげなもんじゃあない。それを通して徳を受けていく。そこで正義さんあんたが不安であるのは修行不足ばいと。そこで発心したあることに取り組んだ。おかげで不安がなくなったおかげを受けた。そん時には正義さんその人が徳を受けておる時なんです。ですから皆さん徳を受けていくと言う事の信心が目当てなんです。
 それを今月はですいにね、神様もこの様にお知らせを下さってある、合楽で白の花ばっかりが集まる時は誰かが死ぬ時だと必ず仰るね。だからもう言わば目出度いと言う様な方達が、もうたった10分間の間に只今。二つのお届けをさして頂いたからこれはこのくらいにして頂いていっちょ(笑)ね。後は銘々が死なして頂きゃあいいのだ、銘々が死んだ気になって、励めばいいのだ努めればいいのだ、そこから生まれてくる喜び、安心そしておかげ、そのおかげに徳が伴うようなおかげを頂くことを今月の焦点として信心を進めていきたいと思います。
   どうぞ。